子育ち・親育ちの視点

『切り替われない大人達』

 

 

数年前の話になるが、息子の通う幼稚園にて、卒園式の練習風景を見る機会があった。

子ども達は、親が見ていることもあり、最初から、かなり興奮気味であった。練習もしばらくすると、周囲の

親を気にし出し集中力がきれてきた。すると、間も無く「気持ちを切り替えていつもの様にやろうね。」と、

先生のゲキがとぶ。子ども達は、はっと気がつき、又、揃って歌い出す。見事に気持ちが入れ替わる。

「静かにしてっ!」「しっかり歌いなさい。」などと命令、強制するのでなく、先生の言い方には「君たちは、

もっと上手に出来るのだ。」という子ども達への信頼感と肯定感があった。いいタイミングで気持ちを汲んだ

言葉掛けに、直にスイッチの切り換えが出来た子ども達も素晴らしかった。子ども達は、精一杯取り組んで

感動的な卒園式の練習風景であった。もちろん、後日行われた卒園式も見事なものであった。

 私は子育てをして思うのだ。本来、子どもは丸ごと自然を抱えた存在であると。だから、思わず目をむくよ

うな、素直な反応をするし、そんな子供に添って、暮らしていると、土や森が恋しくなる。しかし、未来ある、

そんな子ども達の子育ち環境に、恋しいものが、どんどん失われていく不安を覚える今日この頃。そして、

私は、興味を持って、子育ちの周辺を調べ始めた。

 そんな時、地域の子育て支援に関わる方々に、インタビューをしたところ、ある方からこう言われた。

「最近の親は薄い」と・・・。その言葉に酷くショックを覚えた。「どういうことなのでしょうか?」と説明を求め

ると、「自分の事しか考えられない親、見てみぬ振りする親、が多い。」という事であった。

『そうなのかなぁ?・・』と、ずっと心から離れないでいた。

 そんな折、息子の通うこととなる小学校の入学説明会があった。そこでは、小学校の道具を揃えるにあた

って先生より事前の説明があり、その中で「筆箱には、キャラクターの絵のない、無地の物を用意すること。

理由は、絵が気になって、授業に集中できないからだ。」と言うお話があった。「なるほど・・」と思ったが、

息子に報告するのは気が重かった。何しろ‘ワンピース‘とやらの、キャラクター筆箱を、探しに行こうと、約

束をしてしまっていたものだから。「あんなに楽しみにしていたが、果たしてどう反応するやら?」と思いきや

意外と素直に「僕は、勉強ができるようになりたいから、先生の言うとおりにする。」という理由であっさりと

無地の筆箱を購入した。子どもは素直である。きちんと理由が理解できれば気持ちを入れ換えることに抵

抗は無い。

 数日後、幾人かのお母さん方が集まった時、筆箱の話になり、聞くと、何とあれだけ先生が、丁寧にご

説明下さったにもかかわらず、キャラクターものを買い与えた親が、何人もいた。理由を聞くと「子供が欲し

がるし、ああは言ってもみんな持っていたらうちの子が可哀想だから。」「自分の頃も欲しかったもの。学校

が、そう言っても子供だって欲しいはず。」「うちの子、勉強より楽しく学校に行ってくれればいいから。」と・・

これらの返答に、私は、かなり違和感を感じた。「何でこの親たちは、切り換われないのであろう。

昨今の子どもは、集中力、忍耐力に欠けると、世間でこれだけ言われているにも拘らず。『筆箱、消しゴム

1個でも身が入らなくなる。』と先生は言っていたではないか。先生に協力するのも、親の務めだと思うの

だが。先生は、少しでもスムーズに、授業を進めるためにもご協力をと言う意味で言ったはず。それなのに

何でその言葉が届かないのであろう?」と・・・。先生の穏やかなる物言いでは、どうやら、この親達の

スイッチを、押すことは出来なかったようだ。

 この話を、私は、息子にしてみた。「キャラクターの筆箱を、持ってくる子もいるようだよ?」と。

すると、息子は「僕は、これでいいよ。僕が選んだこれが、気に入ってる。でも、隣の子のが、もしそうだった

ら、気になって見ちゃいそうだな〜。」・・・それはそうだ。よく解かる。ここで思いあたった「薄い親、自己中

心的、見てみぬ振り」。このような親が、いくら子供に「ゲームは、時間を決めてやりなさい。」などと言って

も、自分が切り換われないのだから、子供も切り換われようはずもない。

 子供は、大人を見て育つ。だから、大人こそ自分を律し、成長をやめてはいけない。

子どもは、本来、自分自身で育つ力を持っている。それをサポートし、どう引き出し、活かしていくかが、親

の仕事だと考える。そこで、私は、子どもの自ら育つ力と親の自育の気持ちを込めて、‘子育て‘を‘子育ち‘

と呼びたい。子どもを親が育ててやっているのではない。子どもの育ちをサポートすることで親も育っている

と言う事である。親と子で互いに育ちあっていくのである。切り換われる子どもに負けじと切り換われる親

となりたい。